昭和45年12月15日 夜の御理解
今日4時の御祈念をさせて頂いて、下がらして頂く時でしたが御心眼にもう、もうそれこそもう何て言うんでしょうかね、べんぷの高ぁい鼻の低ういもうどんなに見ても見苦しいと言う顔を頂いたんですよ。それで私はあどう言う様な事だろうかと思わして頂いたんですけれどね。お互いが矢張りあの思い上がりがいけませんね。もう慢心は大怪我の元と言われる位ですから、その所謂天狗になってはいけませんよね。
もう少し出来ると、もう私はっちてもうそねくり返ってしまう様な人はすぐある。もうこれはもうほんとに危ない、ね。けれどもそれと同時にね、あたしはあんまり謙虚であるという事もいけないと思いますね。いわゆるもう見苦しいですかえって。「いいや、私はもう、いゃ、私は出来ません」っちから言うとがありましょうが。ね、例えばある意味で自信をもっとったっちゃ、いいえ、私は出来ませんっち言う。
あれが(べんぷだが鼻ひかけ?ちゃると思いました。後で頂いたのはもう、先ほど下がってからこの頃光男さんが持ってきておるカレンダー、出光のカレンダーがありますよね。あれは毎年頂くんです。あれをこうやって、くって見よったらもう、私が御心眼に頂いたと同じその、絵が付いとるとですもん。それが大黒様ですもん。もうべんぷがこう出て来てから鼻がひくい、「ありゃさっきから頂いた御心眼なこれじゃったてい」と思うてからね、これは人事じゃなか、これは自分もこりゃいかんなと思うたです。
私がもう例えばもうなーんもしきらん、なんもしきらんちゅうけん、もう(笑い)もうなにかほんのこて馬鹿んごとだっでん思うとりますもんね。(笑い)その馬鹿ごと男じゃありますけれどもですね、もうほんとに私はそれを思うた、これは人事じゃなかと私は自分の事じゃったと思うてね。あの大黒様の事を私は、そう呼んでくださるですからね、えですからあ、もうほんとにこれはもうやっぱり、その大黒様のね。
金銭のお繰り合わせと言ったような事だけにはもう絶対と言うごとここで皆がおかげ頂きましょう?さあもう、もう何十、もしかしか手形が無いっちゅうのでも、お願い来るとおかげみんなが頂きます。金銭の御繰合わせだけなら見事ですよ。やはりこう大黒様、小槌を打ってくださる、ね。同じ腹が大きいと言うても、久留米の初代なんかは、ちょうど昔あの、(玉錦?)と言う、相撲がおりましたね。
もうそりゃあもう見事な、それこそ玉のような、横綱でしたよ。その久留米の初代の事は、この腹が大きかったと言うてもう、ちょうど玉錦のように腹の綺麗なお方であって同時に力持ちであったと言う事、ね。甘木の初代なんかはやっぱり、お腹が大きかった。けれどもあちらはいっつもあの、妊産婦のようなお腹の大きさだったと仰る。だからもう生み出す事においては日本一、次から次と弟子が出来ていく。
ですからもう強引にどこにでんここんでん、割り込んできなさるから評判がやっぱ悪かったですね、見苦しかったです。やっぱ妊産婦の腹にふとかと 同じ事ですね。うんと小倉の桂先生の場合なんかはね、腹が太いっちゅうのはあのちょうど、清水次郎長のような意味合いの腹事があった。どんばらがもういつも、桂松平が言うた事を、がその間違うた事があるかと言うてこう、腹を叩きなさるような腹の大きさだったと言うて、もうこれは14、5年も前にお知らせ頂いた事があるんですよね。で、
私のはちょうど大黒さんのようなお腹の大きさだと仰るんです、その時。そういうおかげを願えと仰る、そういう徳を。だからまた私が大黒さんの徳を受けておるわけではないだろうけれども、まあ言うなら金銭のお繰り合わせだけはもうそりゃ見事に頂きますね、皆が。私がよっしゃ、ちゅうたら間違いが無い、こう(うちふって ? )と言うような、まあこのおかげをいよいよ頂いていかなければならんのにです。
私があんまり謙虚、何も出来ん、何も出来んっちから、ほんのこてもうノートひとつ書ききらんかと思っちから馬鹿にして、してる人達がある、随分と。「大坪さんは馬鹿じゃけん、ちゅうごたふうに、頭がちと弱かけんで」ち。(笑い)なるほど頭が弱いとこも有りますけれどもね、けどそれは私があんまりその、謙虚さ、謙虚な、言うなら必要以上に謙虚にしておると言う事を今日は指摘してくださったように思うた。
それが私(今日?)もうそれこそ(でんぶんたこ?)して腹がへーんか、それを期せずして先ほど私と久富先生と修行生と三人であの、カレンダーをふっと見よったから、あら、さっきから頂いた御心眼はこれじゃったと言いっちから、先生方と話した事じゃった。その大黒様の絵がですね、もう(べんぷ?)がこう前に出てきておるのですよ、で鼻が低いとても器量の悪いそのう、大黒様の絵を見せて頂いて、こりゃ人事じゃなかな、これはほんとにおかげを頂いてね、
今朝からも頂く御理解のようにほんとのものを目指せと言う事でしたね。ですから、ほんとの物を目指さしたらほんとのおかげが絶対付いてこんはずが無いです、どんなに偉そうな事を言うとったっちゃ、どんなに話が上手じゃったっちゃ、とにかくあんた、人が助かりもせんごたる先生になるとはほんなもんじゃなかってす、絶対ほんなもんじゃなか。これはもう間違いは無い。ね、もうほんとにどんなに立派なですよ、それこそ御地蔵さんのごとしとたっちゃね、(笑い)先生ぶりゃ良かったっちゃね、
人が助からんならこれはまずほんなもんじゃ無いと思わないかんです。形だけがほんなもんちゅう。私どんごと ある意味合いで、例えば(凡夫?)だが鼻ひかんごとしとったっちゃです、おかげを頂いて人が助かる、ね。特に金銭の事だけなら、じょうけにおよばんちゅうくらいに皆お繰り合わせ頂く、ね。ですから私はそんならそれで良いとは思わない。そのだからよりもっともっとほんとな私になろう、ほんとの取次ぎ者になろうと精進するわけですよ。
だからその本当な、その、物の中にはどう言う事かというと、どんなにおかげを頂いても、天狗にならないと言う事なんです。ね、おかげを頂くともう自分がちっと努力したけんで、もうこげなおかげ、おかげじゃなくもうこげな風になったと言うてその、おかげと言わんごつなってくる。これは危ない。そこでお互いが難儀の時に、いよいよほんとに困っておる時にはね。
神様どんなおかげを頂いても、慢心どんするような事は有りませんと言うような一冊が神様に入れられるくらいなおかげを頂かにゃいかんです。どんなにおかげを頂いても、ね、私が慢心でもするような事ありませんと言う事。と同時に今日、今晩はね、慢心と言うて慢心もいかんけれども、そんなに、あんまりです、「いやあ、出来ません、いんや、出来ません」いかにもそれが(美風?)のように、ね。
それをその、良い事のように思うておるような思い方もこれは間違いだと言う事。あんまり鼻が低かと見苦しいかちゅう。だから適当なところにですね、いつも言わば、言うならばどんな難儀な事にあたっても、へこたれない、と言うて、どんなに、おかげを頂いても慢心せんで済む、天狗にならんで済むだけの信心、そう言う信心を私はほんとの信心だと思うね。いよいよ一つおかげを頂いて、ほんとなものを目指さして頂かなきゃならんと思うですね。
どうぞ。